HOME


 

橋本努の音楽エッセイ 第2回「音楽の中に故郷を見つける」


雑誌Actio 20098月号、23

 


 海外を旅していると、妙になつかしい場所に遭遇することがある。ひょっとして僕は、ここで生まれたのではないか。足を一歩踏み入れただけで、心が周囲に溶けていく。そういう精神の故郷は、僕にとってこれまで、ネパールとグァテマラであった。ネパール人もグァテマラ人も、自分と似た顔をしているように見えてきてしまうのだ。

 音楽の世界にも、自分の故郷といえる場所がいろいろある。そんな世界を発見すべく、僕はCDをかき集める。なかでもニュイェン・リーの「ベトナム物語拾」(Nguyen Le, Tales from Vietnam, World Jazz 1996)は、感激の1枚だった。リーは、ジャズやフュージョンで知られる鬼才のギターリスト。フランスを中心に活躍中だが、その彼が故郷のベトナムで打ち立てた入魂の一枚がこれ。民俗音楽やジャズといった領域を超えて、音楽そのものの最高の到達点でさえあるだろう。ベトナムの昔話を素材に、ナチオを歌うヴォーカル、疾走するギター、ベトナム独特の音階などが、甘美な世界を創造する。演奏者たちの意気込みもあって、ドライブに満ちた音楽の喜びがある。手放しで絶賛したいベトナム文化の矜持だ。

 日本ではピアニストの山下洋輔が、1990年に打ち立てたジャズの金字塔がある(SAKURA, Polydor, Verve 1990)。「さくら」「雨降り」「笹の葉」など、日本の民謡を素材に、ジャズ音楽の可能性を刷新した記念すべき作品である。僕は大学生のときにこれを聴いて、あまりの衝撃に眠れなくなってしまった。音楽表現の新しさ、演奏の緊張感としなやかさ、アヴァンギャルドの精神、郷愁あふれる旋律、テクニックとコラボレーションの絶妙さなど、あらゆる点で冒険的であり、しかも完成度の高い作品なのだ。日本文化なるもののイメージを新ためて表現し、現代の感性をどこまでも先へ連れていく。

 これはクラシックだが、ぞくぞくするような鬼才の1枚がある。ヴァイオリニスト、ギドン・クレメールがアストール・ピアソラに捧げた作品である(Tracing Astor: Gidon Kremer plays Astor Piazzolla, Nonesuch 2001)。ピアソラの音楽はアコーディオンを原音とするが、クレメールはこれを弦楽三重奏で表現する。その内容は、ピアソラのイメージからはどこまでも遠く、しかし存在の運命的表現として、どこまでも深い。まるで現世を拒否した修道僧が、徹底して現世的な情熱の世界に、黒いオルギアを注ぎ込むかのような表現だ。あるいは暗い裏道の、ほのかな電燈によって地面に映し出された人の影。その影のなかに、人生のすべてを表現しようとすれば、それはいかにして可能なのか。そういった問いが生まれてくるような音楽だ。研ぎ澄まされた精神、強度の緊張感、飛び散る線の絡み合い、深い闇に細く鋭くきらめくような空間。何度も聴いているうちに、演奏の抑揚が身体に染みついてしまった。

日本の現代音楽を代表する武満徹に、「風の馬」(ビクター 1997)という合唱作品集があって、これがいい。僕は若い頃、合唱ほど、きらいな音楽はなかったが、それは学校の規律と結びついていたからだろう。けれども先入観を排せば、作品のもつ無垢な情緒に心が洗われる。ときどき僕は、武満の「小さな空」という曲を、無意識のうちに口ずさんでしまう。「青空みたら/綿のような雲が/悲しみをのせて/飛んでいった/いたずらが過ぎて/叱られて泣いた/こどもの頃を憶いだした」(武満徹の作詞)。嗚呼! この音楽の中にどっぷりと溶けてしまいたい。なんだか、ここから「帰りたくない」という強情な姿勢になってしまうのである。